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1.3億人に満足価格を

バブル経済と呼ばれる好景気から一転、1990年代初頭の日本は「失われた10年」とも呼ばれる長い不況の時代を迎えます。日経平均株価の大幅な下落、失業率の増加、消費税の引き上げ――。出口が見えない不況のトンネルの中で消費者は財布の紐を堅く締め、“値段の安さ”に価値を見出すようになりました。日本マクドナルドは1991年に外食産業初の年商2,000億円を達成し、その後は地価の下がったマーケットに積極的な店舗展開を行い、デフレ時代をいち早くとらえたマーケット戦略に取り組みます。消費者の心をつかむ魅力的な価格の商品を次々と投入し、1999年には3,000店を突破し、大きな成長の10年となりました。

  • 1.デフレの食の時代へ―外食産業で巻き起こった価格改定―
  • 2.外食産業“冬の時代”に攻めの出店戦略を―出店数3,000号店を突破―
  • 3.重厚なコーヒー文化を、気軽な楽しみに―「マックカフェ」オープン―

デフレの食の時代へ―外食産業で巻き起こった価格改定―

「新しい元号は、“平成”であります」。小渕 恵三官房長官が国民に新元号を発表した1989年1月、当時の日本はバブル絶頂期を迎えていました。新しい時代への期待感が経済を後押しし、その年の12月29日の日経平均株価は史上最高値となる3万8,915円を記録。しかし、このバブル景気は長くは続きませんでした。異常に高騰していた株と土地の価格を抑えるため、日本銀行が公定歩合を段階的に引き上げ、また政府が不動産向けの融資を制限。これによって市場に出回るお金が減り、株と土地への投資が止まって買い手がつかない状態に。この状況に危機感を覚えた投資家たちは慌てて資産を売却し、これがきっかけとなって株価も地価も急激に暴落。大きく膨れ上がったバブルはわずか数年で、あっという間に弾けてしまったのです。しかし、人々はすぐに景気の悪化を実感したわけではありません。実際に人々の生活に影響が及んだのは、株価の下落が始まった数年後でした。
まだ多くの人がバブル崩壊のあおりを受けていなかった1991年、当時の日本マクドナルドの社長藤田 田は経済紙のインタビューに「今後、物価は今の1/3になる」と大胆な予測を披露しました。そしていち早く、これからの時代のお客様が望まれるであろう価格への改定に着手したのです。価格戦略の一つとして1994年3月に発売したのが、バーガー、マックフライポテト、ドリンクのセットを400円・500円・600円という3つの価格帯で打ち出す「バリューセット」です。常時手頃な価格の新メニューは、不景気の中で財布の紐が堅くなっていた人たちの心をすっかり掴み、この年の日経優秀製品賞に選ばれました。また1995年4月には、お客様にも事前にお知らせすることなく商品の価格を突然大幅値下げする“強襲作戦”を決行。まず、ハンバーガーが210円から130円、チーズバーガーが240円から160円、ダブルチーズバーガーが350円から270円へと値下げされ、続いて7月、10月にはすべての商品の値下げが実施されました。このときの設定価格は、実際にお客様が商品に望まれている価格をリサーチして、それをそのまま採用するという思い切ったもので、大変な反響がありました。このエピソードからも分かるように、出口の見えない不景気によって、何を食べるのかを価格重視で選ぶ時代が到来したのでした。

新元号を発表する小渕恵三官房長官 写真:毎日新聞社提供

新元号を発表する小渕恵三官房長官
写真:毎日新聞社提供

1994年に販売を開始した「バリューセット」

1994年に販売を開始した「バリューセット」

外食産業“冬の時代”に攻めの出店戦略を―出店数3,000号店を突破―

スーパーやコンビニエンスストアで、お惣菜やお弁当を買って自宅で食べる。ピザやお寿司の宅配サービスを利用する。今ではごく当たり前となった“中食”のサービスが人々の生活に浸透したのは1980年代のことでした。コンビニエンスストアの積極的な展開、テイクアウト可能な外食店の急増、電子レンジの普及、核家族化、1986年に施行された「男女雇用機会均等法」によって女性の社会進出が進み、仕事で疲れた彼女たちが料理せずに手軽に食べられる中食を選ぶようになった…など要因は様々に言われています。バブル崩壊後も中食の成長の勢いは衰えることがなく、現在に至るまで市場規模が拡大し続けています。
一方で外食産業は中食の台頭やバブル崩壊の影響を受け、成長が望みにくい時代に突入していました。そんな中、日本マクドナルドはさらに攻めの戦略を展開していきます。PMO(Profitable Market Optimization)と呼ばれた急速店舗開発戦略です。バブル経済が崩壊し、地価の下がったマーケットにお客様への利便性を最大限に高めるために、それまでの大型のドライブスルー店舗だけでなく、母店として小型のドライブスルー店舗を開発。その店舗を母店とし、スーパーマーケットやショッピングセンターなどのモールやフードコートにマーケットサイズに合わせたサテライトと呼ばれる小規模の店舗出店を加速しました。このことで全国の小さなマーケットでもマクドナルドはより身近となり、手軽にご利用いただける存在になりました。また日本独自のメニュー開発にも力を入れます。今も人気のてりやきマックバーガー、チキンタツタ、月見バーガー、グラコロ、ベーコンレタスバーガーなど日本独自の期間限定メニューが誕生したのもこの時期です。レギュラーメニューと期間限定メニューの開発によるメニューバリエーションの強化は幅広い層のお客様の支持へとつながりました。これら攻めの戦略の相乗効果によって、1995年に日本マクドナルドに来店されたお客様の数は対前年20%を超え、のべ5億8,500万人となりました。来客数と出店数は伸び続け、翌年には2,000号店を出店。さらにわずか3年後には3,000店を突破しました。日本社会が閉ざされた冬の時代の中、世界のマクドナルドはこのようにして日本で最も親しみのある外食店となっていったのです。

000号店となる環八大鳥居店(東京都)

国内3,000号店となる環八大鳥居店(東京都)

重厚なコーヒー文化を、気軽な楽しみに―「マックカフェ」オープン―

日本に初めて本格的な喫茶店がオープンしたのは、1888年のことでした。この喫茶店の誕生によって徐々に一般市民にも広まっていったと言われています。その後コーヒーを提供する店の業態は時代と共に移り変わり、戦後には個人経営のオーナーの趣味を色濃く反映した個性的な喫茶店が数多く登場。コーヒーの香りが漂う中でレコードを鑑賞したり、詩歌や文壇論に花を咲かせたりと、コーヒーの豊かな味わいと共に様々な文化を愉しんでいた人の大半は男性だったそうです。
それから約100年を経てコーヒー文化は大きく変化してきました。1990年代にはカフェブームの到来により、おしゃれな空間で雑誌をめくりながらミルクたっぷりのラテを楽しむ女性たちの姿を多く見かけられるように。またそんな彼女たちの姿は、社会に進出し始めていた多くのビジネスウーマンにとっての憧れのスタイルになりました。日本マクドナルドは1998年に「マックカフェ」を東京・恵比寿に出店しました。ここでは、カフェラテなどのコーヒー類やサラダ、マフィン、ケーキといったこだわりのカフェメニューをどなたにも楽しんでいただきやすい価格で提供。普段はマクドナルドに足を運ばない方も気軽に来店いただけるというスタイルでした。その後、時代の移り変わりと共にコンセプトやメニューを進化させて、2012年からは「McCafé by Barista(マックカフェ バイ バリスタ)」として新たにオープンしました。現在、この「McCafé by Barista」は全国に約130店舗あり、親子連れやシニア層の方など年齢・性別問わず幅広い層のお客様が来店しています。かつて重厚で特権的なものだったコーヒー文化は、今や誰でも気軽に楽しめる大衆文化へと移り変わっています。

2012年にオープンした「McCafé by Barista」

2012年にオープンした「McCafé by Barista」